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何も欠けるところはない [正信偈と現代(その62)]

(10)何も欠けるところはない

 「たてさま」とは上下の位階秩序で、「そこさま」とは横並びにひとつであることを、このエピソードはよく伝えてくれています。真理をこちらから(自力で)つかみ取るとしますと、その結果にはこちらの能力に応じておのずと上下の差が出てきます(力のある人はより多く、より深くつかみますが、力のない人はより少なく、より浅くしかつかめません)。しかし真理は向こうから(他力により)もうすでに与えられているとしますと、そこに差はなく横並びに一線です。
 いや、真理は向こうからもうすでに与えられているとしても、こちらの器量に応じてより多く与えられていたり、より少なく与えられていたりするのではないか、したがってやはり人により差があるのではないかという疑問が生じるかもしれません。これは一見もっともらしく思えますが、真理がすでに向こうから与えられ、われらはそれにもう与っているという根源的事実を見誤っています。与えられると言いながら、その実、つかみ取ろうという姿勢をとっているということです。
 より多いとかより少ないとか、より深いとかより浅いということは、こちらからつかみ取ろうとするときの比較基準です。もうすでに向こうから与えられていることに気づくときにはそんな比較をしようとは思いません。スピノザはこんなことを言っています、「われわれは石に視力が欠けているとはいわない」と。石は視力がなくても、石として何の問題もないということです。
 真理がすでに向こうから与えられているということは、すべては現にあるようにあり、それ以外ではありえないということですから、石は石として完全であり、何も欠けるところはありません。われらも同じく、現にあるようにあり、それ以外ではありえませんから、われらとして完全であり、何も欠けるところはありません。これが「よこさま」ということです。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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