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自力と他力 [正信偈と現代(その64)]

(2)自力と他力

 先回の最後の二句「獲信見敬大慶喜(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき)、即横超截五悪趣(そくおうちょうぜつごあくしゅ)」を解説するなかで親鸞はこう言っています、「信心を浄土宗の正意としるべき也。このこころをえつれば、他力には義のなきをもて義とすと、本師聖人(法然)のおほせごとなり。義といふは、行者のおのおののはからふこころなり。このゆへにおのおのはからふこころをもたるほどおば自力といふ也。よくよくこの自力のやうをこころふべしとなり」(『尊号真像銘文』)と。他力信心とは、つまるところ「義なきを義をす」ということで、自力のはからいがなくなるところに他力の信心がひらけるということです。これをよくよくお心得くださいと言っています。
 つづくこの8句で、それがしかしいかに難しいことかが述べられるのです。
 もういちど自力と他力の要点を振り返っておきましょう。自力とは、真理をこちらから手に入れようとすることで、他力とは、真理はもうすでに与えられていることに気づくということです。普通に考えますと、何であれこちらから手に入れるのは困難であるのに対して、向こうから与えられるのはこんな楽なことはないと思います。ところが、真理がすでに与えられていることに気づくことこそ「難の中の難、これに過ぎたるはなし」と言うのです。どうしてそんなことになるのか。ことはぼくらが生きることそのことに関わります。
 退職したむかしの教員仲間と久しぶりに顔を合わせますと、「やあ、いま何してる」ということになります。「もう何もしてないよ」と答えるのは、何かで(例えば非常勤講師などをして)お金を稼いでいるわけではないという意味で、文字通り何もしていないわけではありません。趣味で囲碁をしたり、家庭菜園をしたり、ウォーキングをしたりということです。このように、生きるということは何かをすることであり、そして、何かをする以上、そこにはなにがしか目的意識があります。囲碁なら、さしずめ呆けないように、であり、家庭菜園は、採れたての野菜を食べたいから、であり、ウォーキングでしたら、健康維持のため、でしょうか。

タグ:親鸞を読む
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