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手に入れる [正信偈と現代(その66)]

(4)手に入れる

 生きることは、そのすべてが何かを手に入れることであるとなりますと、真理もとうぜん手に入れるものとなるでしょう。
 だから自力聖道門は受け入れられやすいのです。厳しい修行をつんで真理を手に入れなければならない、その真理が深淵なものであればあるほど、それを手に入れるための修行もなまなかのものではないだろう。これはぼくらの日常の思考パターンにしっくり馴染みます。それに対して、真理はもうすでに与えられている、それに気づくだけでいい、というのはどうも勝手が違います。かくして弥陀の本願を聞信するのは「難の中の難、これに過ぎたるはなし」となるのです。
 そもそも、真理はもうすでに与えられているということは、それ自体、気づいてはじめて言えることです。その気づきがありませんと、真理はあくまで自分の力で手に入れるものであって、どれほど「すでに与えられている」と言われようと、そんなはずはないと思います。その理由はすぐ上に言った通り、ぼくらが生きるということは何かを手に入れることですから、真理もとうぜん自分で手に入れるものと思い込んでいるからです。真理がもうすでに与えられているなんてどういうことか、と反対に問い返されることでしょう。
 お答えしましょう、それは「世界に新しいことは何一つない」ということです。
 そんなばかなことはない、と言われるでしょうか。「日々あらた」ということばもあるように、あらゆることはつねに変化し、これまでになかったことが次々と起こってくるし、また新たにことを起こしていかねばならないと。それはその通りです。世界は決してフリーズしているわけではありません。でも、しかし、but、世界にほんとうの意味で新しいことなど何ひとつありません。もうすでに真理は与えられており、世界はすべてその真理の通りであり、それ以外にありようはありません。

タグ:親鸞を読む
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