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苦しみとは [正信偈と現代(その70)]

(8)苦しみとは

 苦しみとは気づきだと言いましたが、その証拠に動物たちには苦しみはありません。こんなことを言うと、さしずめ動物愛護協会の人たちから猛然と反論が起こるでしょう、「何ということを言うか、動物にも苦しみもあれば喜びもあり、人間と変わるところはない」と。はっきりさせておかなければならないのは、釈迦が苦しみというのは「こころの苦悩」だということです。動物たちも怪我をすれば痛いでしょうし、病気で発熱すれば身体がだるいでしょう。その点では人間と何も変わりませんが、それは「こころの苦悩」ではありません。
 動物にも「こころの苦悩」はある、と言われるかもしれません。たとえば屠畜場に連れていかれるときに家畜が上げる何ともいえない声はそれを物語っていると。たしかに普段とは違う雰囲気に家畜は不安を感じ、必至に連れて行かせまいとして足を踏ん張りますが、それは敵の気配を感じた動物がとっさに逃げようとするのと同じで、そのとき家畜が苦悩しているというのは行きすぎた擬人化でしょう。気がふさいだり、イライラするのも人間と同じでしょうが、それは苦しむことではありません。
 釈迦は「生きることはすべて苦しみである」と述べ、さらに「苦しみの元は煩悩である」と考えました(これは釈迦の考えがのちに四諦説というかたちに整理されたもので、「すべて苦しみである」を苦諦、「苦しみの元は煩悩である」を集諦‐じったい‐とよびます)。苦諦と集諦はこのように分けて説かれますが、両者は別ものではなく、苦しみの気づきは煩悩の気づきでもあります。生きることはみな苦しみであると気づいたとき、苦しみの元は煩悩であると気づいているのです。漠然と不安を感じているのはまだ苦しみとは言えませんが、不安の正体に気づいたとき、それははっきりとした苦しみになります。そして苦しみながら、この苦しみのよってきたる元が煩悩であることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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