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「生きんかな」とするのは罪? [正信偈と現代(その72)]

(10)「生きんかな」とするのは罪?

 ここでひとつの疑問が浮かび上がります。生きとし生けるものには「生きんかな」とする盲目的な衝動があるとしても、それに気づくことがどうして苦しみとなるのか、ということです。フロイトに関連してこう言いました、「不都合な真実」から目をそらして生きることがさまざまな症状の原因となっている、と。リビドーという性的な衝動は、たしかに世間的には不都合な真実と言っていいかもしれません。しかしスピノザのように「自己の有に固執しようと努める努力」と考えれば、それからどうして目をそむけなければならないのか、すぐには納得できるものではありません。
 「生きんかな」とすることがどうして悪であり罪であるのか、ということです。
 ニーチェという人はそれに対してこんな驚くべき答えを出しました。「生きんかな」とする力の弱い者たちが、その力の強い者たちにルサンチマン(憎悪)を懐き、「生きんかな」とすること自体を罪だと教える宗教を創りだしたのだと。キリスト教という宗教が世間一般に罪の意識を植えつけたのだと言うのです。これはひとつの驚くべき卓見だとは思うのですが(ぼくは若い頃この思想にイカレテいたことがあります)、やはりどこかに無理が感じられます。ニーチェには一生懸命つよがってみせている気配があります。
 「生きんかな」という衝動を悪と感じ罪と意識するのは、誰かが無理やりそうさせたのではなく、そうせざるを得ない何かがあると思うのです。それは、個々の「生きんかな」がぶつかり合うとき、己れの「生きんかな」を貫こうとすると、他の「生きんかな」を蹴散らさなければならないということに関わってきます。早い話、ぼくらは他の生きものを食べなければ生きていけません。動物たちはそんなことを一向に苦にすることなく、獲物をしとめては貪り食っているのですが、それは彼らには「生きんかな」という衝動がそうさせているという意識がないからです。

タグ:親鸞を読む
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