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煩悩の気づきが本願の気づき [正信偈と現代(その73)]

(11)煩悩の気づきが本願の気づき

 本願念仏がどうして「難のなかの難」であるかから出発して、かなり長い道のりを歩いてきました。
 整理しておきますと、真理をこちらから手に入れようとする自力聖道門はとっつきやすいのに対して、真理がすでに与えられていると説く他力浄土門は馴染みにくく、したがって難しいと感じられるということ。そして、真理がすでに与えられているというその真理とは、「生きとし生けるものはみなそのままで救われている」ということ。「そのままで」というのは「生きんかな」という盲目的な衝動(煩悩)に突き動かされているままで、ということ。そしてそれに気づくことは苦しみであるということ。こんなところでしょうか。
 最後に考えておかなければならないのは、煩悩に衝きうごかされて生きていることの気づきは苦しみをもたらすにもかかわらず、それがどうしてそのままで救われていることになるのか、という問題です。苦しみがどのようにしてもたらされるかが分かったとしても、それで苦しみがなくなるわけではありません。なのに、どうして苦しみの元についての真理が、そのままで救われているという真理になるのでしょう。このあたりの消息を論理的に説明するのは至難の業といわなければなりません。
 そこで、もういちどフロイトを参照しますと、不都合な真実として無意識の層に押し込められいることがら(リピドー)を明るみに出すことが症状の改善につながるというのが精神分析学のキモでした。症状の原因を自覚することが症状の改善になる。同じように、苦しみの元を自覚することが苦しみを和らげることになるのです。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と自覚することが、取りも直さず「かの願力に乗じてさだめて往生をう」と信ずることになるのです。
 こんな自分が救われるはずがないと自覚することが、こんな自分だから救われると信ずることになる、これはもう不可思議というしかありません。

                 (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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