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真理とは [正信偈と現代(その76)]

(3)真理とは

 法然はこれまで寓宗にすぎなかった浄土教をひとつの独立した浄土宗に格上げしたのですが、親鸞はさらに浄土宗こそ仏教そのものであると宣言するのです。浄土の教えは仏教の傍流ではなく、これこそ主流であると。
 その端的な表明は『教行信証』「教巻」に掲げられています、「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と(親鸞は『仏説無量寿経』のことを、『大無量寿経』と言います)。仏教経典にいろいろあるけれども(八万四千の法門と言われます)、『大無量寿経』こそ真実が説かれている経典であるというのです。原始経典(いわゆる阿含経)ではなく、そして大乗経典のなかでも『法華経』や『華厳経』でもなく、『大無量寿経』に真実が説かれていると。
 しかしどんな根拠でそんなことが言えるのか。先ほども言いましたように、『無量寿経』は釈迦が入滅した数百年の後に編纂されたもので、そんな後世の経典に仏教の真実があるなどとどうして言えるのでしょう。
 ここで想起したいのは、釈迦は、新たな独自の真理を提示したのではなく、もうすでに存在している真理に気づき、それを人々に伝えただけであるということです(第5回「弥陀と釈迦」を参照)。同じように、『無量寿経』は、何か新たな独特の教えを提示しているように見えても、その実、永遠のむかしからある真理を説いているだけであるということ、ここに問題を解く鍵があります。
 真理に新しいも古いもないということです。ほんとうに真理という名に値するようなものは永遠でなければならないということ。ただしかし、その一方で、真理は日々更新されていくものというのも普通の感覚ではないでしょうか。100年前に真理とされていたことがいまではもうまったく通用しないという例には事欠きません。とすれば、いま真理とされていることも100年後はどうなっているか保証の限りではないということになりそうです。

タグ:親鸞を読む
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