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真理とは(つづき) [正信偈と現代(その77)]

(4)真理とは(つづき)

 数学などでは永遠の真理と言えそうなものを上げることができます。たとえば「三角形の内角の和は二直角である」というユークリッドの定理は、100年後はもちろん、何万年たっても真であると言えるでしょう。それに引き換え、人間の生きざまにかかわることがら、たとえば「何が善で何が悪か」というようなことについては、100年も経たないうちにコロッと変わっているかもしれません。
 そこで、とりあえずこう仮定しましょう、『無量寿経』にはある真理が説かれている、と。前に述べましたように(第8回「難のなかの難」)、その真理は「生きとし生けるものは、そのままで(生きんかなとする盲目的な衝動=煩悩をもったままで)救われている」というかたちに表せると思うのですが、仮にこれが真理だとしますと、そこからどんなことが言えるかを考えてみたいのです。
 これが正真正銘の真理だとしますと、永遠に真理でなければなりません。あるときまでは真理でなかったが、あるときから真理になった、とか、あるときまでは真理であったが、あるときから真理でなくなった、というようなものであってはなりません。それではほんとうの真理とは言えません。としますと、『無量寿経』が編纂されたのは紀元前後であるとしても、この真理はそれより数百年前の釈迦にとっても真理であったはずです。釈迦が説いた教えはこの真理と別ではないということです。
 さらには、この真理は釈迦以前にも真理でなければなりません。仏教が生まれる前からこれは真理であったということです。釈迦がこの世に現れたのは、ただ弥陀の本願を説くためである、と正信偈に言われるのはそういうことです。釈迦は何か目新しい真理をうちたてたのではなく、永遠のむかしからある真理に気づいただけであるということ、そしてそれが数百年後にまた『無量寿経』というかたちで説かれた。そして、それが龍樹、天親、曇鸞等々へと受け継がれ、親鸞にまで至っているということです。

タグ:親鸞を読む
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