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真理に気づく [正信偈と現代(その78)]

(5)真理に気づく

 もし真理があるとしますと、それは永遠である、ということを見てきました。次に、もし永遠の真理があるとしますと、それは誰かが「創りだした」ものでないのは言うまでもありません。もし誰かが「創りだした」のでしたら、その人より前には真理がなく、あるときとつぜん真理が出現したということになり、それは永遠ではなくなります。「三角形の内角の和は二直角である」という真理はユークリッドが「創りだした」のではありません。ユークリッドがそう言おうが言うまいが、「三角形の内角の和は二直角である」のです。
 ではユークリッドは何をしたのでしょう。
 彼はこの真理を「見いだした」と言えそうに思えますが、この言い回しも要注意です。どこかに隠れていた宝を探しだした、というようにとらえられますと、それは違うような気がします。探しだすというのは、こちらから出かけて行っていろいろなところを歩き回り、どこにあるのかを突き止めるということですが、そうではなく、むしろ真理の方からユークリッドにやってきたのではないでしょうか。画家や音楽家に、ある画想や曲想が「降りてくる」と言ったりしますが、この場合も、真理がユークリッドに降りてきたと言うべきだと思われます。
 それを言おうとするとき「気づく」ということばがもっとも適切です。
 「生きとし生けるものは、そのままで(生きんかなとする盲目的な衝動をもったままで)救われている」という真理に戻りますと、釈迦はこの真理を「創りだした」のでも、「見いだした」のでもなく、「気づいた」というべきです。そして『無量寿経』の編纂者も釈迦を通してこの真理に気づき、それが浄土の教えとして今日まで伝えられてきていると考えることができます。かくして「仏教とはようするに弥陀の本願の教えである」という大胆な宣言になるわけです。

タグ:親鸞を読む
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