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真実と方便 [正信偈と現代(その79)]

(6)真実と方便

 さてしかしこれで問題は終わったというわけにはいきません。先ほども言いましたように、仏教の経典には『無量寿経』の他に小乗の『阿含経』をはじめ、大乗経典としても『法華経』や『華厳経』などいっぱいあるなかで、「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と言うのはどういうことか、というもっともな疑問が残るからです。釈迦が説いたことがもとになってこうした種々の経典が生まれてきたのですから、そのひとつが『無量寿経』だというのはいいとしても、これだけが真実であるというのはどうしてかという突き上げが上座部仏教や聖道門の諸宗から沸き起こるのは必至です。
 ところで「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と言う親鸞は、それ以外の教えを虚偽とするのでしょうか。滅相もありません、それらを方便の教えとして大事にするのです。そもそも七高僧の最初にくる龍樹は中観派の祖であり、日本でいえば、三論宗、成実宗の祖ですし(龍樹は八宗の祖とも言われます)、二番目にくる天親は唯識派の祖であり、日本の法相宗、俱舎宗の祖です。そして親鸞自身は叡山で天台教学を学び、そこから仏教の基本となることを大いに汲み取ったに違いありません。また、『教行信証』をみますと、浄土三部経以外にも『華厳経』や、とりわけ『涅槃経』からたくさんの引用があります。
 親鸞にとって真実の反対は二つあります。ひとつは邪偽。これはいわゆる外道で、仏教以前のインドで唱えられていたさまざまな説(六師外道とよばれます)を指します。もうひとつが方便です。『教行信証』は六巻からなりますが、最初の巻が「顕浄土真実教文類」で、以下、「顕浄土真実行文類」、「顕浄土真実信文類」、「顕浄土真実証文類」、「顕浄土真仏土文類」とつづき、どの巻にも「真実」ということばがつくのに対して、最後の巻は「顕浄土方便化身土文類」で、方便ということばが冠されます。ここに真実と方便の対があります。

タグ:親鸞を読む
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