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機に応ず [正信偈と現代(その81)]

(8)機に応ず

 小乗の阿含経典にせよ大乗の諸経典にせよ、みな釈迦が気づいた真理そのものへと人々を導くための方便(道しるべ)であるとしますと、親鸞が「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と言うのはどういうことでしょう。『無量寿経』もまた釈迦の真理への道しるべであって、その点で他の諸経典と違いはないのではないでしょうか。そこで目を向けなければならないのが「明如来本誓応機(如来の本誓、機に応ぜることを明かす)」の一節です。
 先に述べましたように、権智とは相手に応じてことばを選ぶ、つまり対機説法ということですから、すべての経典がそれを心がけているということができますが、ただ『無量寿経』は救われがたい罪悪生死の凡夫を相手として語られているというところにその本質があり、だからこそ親鸞は「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と宣言したに違いありません。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」だからこそ、「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」と言えるということ、ここにこの経の本質があります。
 曽我量深氏はこの機の深信と法の深信の対応について、おもしろい話を聞かせてくれます。機の深信に言う「無有出離之縁(出離の縁あることなし)」とは、「無縁の衆生」であるということ、救いに縁のない衆生ということですが、それは弥陀の「無縁の慈悲」と対応していると言うのです。曇鸞の論註に「慈悲に三縁あり」とあり、衆生が起こす世間的な慈悲を「衆生縁」、小乗の聖者が起こす慈悲を「法縁」、そして仏の平等な慈悲を「無縁」としているのですが、前二者は何らかの理由にもとづいておこされる慈悲であるのに対して、無縁の慈悲とは何の理由もなくおこされる慈悲であり、だからこそ無縁の衆生に対応するのだと言われるのです。
 無縁の機に応じて無縁の慈悲があるということ、ここに『無量寿経』が真実の教であるとされる所以があります。

                (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
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