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偈文10 [正信偈と現代(その82)]

            第10回 龍樹-有無の見

(1)偈文10

 釈迦如来楞伽山(しゃかにょらいりょうがせん)  釈迦如来、楞伽山にして、
 為衆告命南天竺(いしゅごうみょうなんてんじく) 衆のために告命したまわく、「南天竺に、
 龍樹大士出於世(りゅうじゅだいじしゅっとせ)  龍樹大士、世に出でて、
 悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)    悉く能く有無の見を摧破せん。
 宣説大乗無上法(せんぜつだいじょうむじょうほう)大乗無上の法を宣説し、
 証歓喜地生安楽(しょうかんぎじしょうあんらく) 歓喜地を証して安楽に生ぜん」
と。
 
 (現代語訳) 釈迦如来が楞伽山において人々に向かってこう説かれた、「これより後、南インドに龍樹大士が世に出て、有にとらわれた考え方、また無にとらわれた考え方を悉く打ち砕くであろう。また大乗のこのうえない真実の教え、すなわち本願念仏の教えを説きひろめ、不退転・歓喜の境地を得て、安楽浄土に往生するであろう」と。

 七高僧の最初は龍樹です。龍樹とくれば「中観の哲学者」というのが相場で、『中論』を見る(読んだ、とはとても言えません)限り、これぞ論理の人というイメージです。論理を尽くし、とことんまで追いつめて、「空」の哲理に至った人で、それがどうして浄土の教えの祖とされるのか、誰しも戸惑うのではないでしょうか。前に「論理のことば」と「物語のことば」についてお話しましたが(第5回「弥陀と釈迦」)、『中論』は「論理のことば」で埋め尽くされているのに対して、『無量寿経』は「物語のことば」で書かれていますから、その落差の大きさに戸惑わざるを得ないのです。

タグ:親鸞を読む
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