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黙っていられない [正信偈と現代(その83)]

(2)黙っていられない

 先回の終わりに述べましたことを再度確認しておきますと、真如とか法性という名でよばれる「真理そのもの(実智)」は「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)です。したがって「真理そのもの」を人に伝えようとしますと、そのために「方便としてのことば(権智)」が必要となってきます。釈迦の気づいた真理を伝えるものとしての経典や、それを注釈する論釈は、その意味ですべて方便としてのことばで書かれているのですが、その方便としてのことばに「論理のことば」と「物語のことば」の二種類あると言うことができます。
 「こころもおよばれず、ことばもたへた」ことを、あえてことばにしようというのですから、もともと無理があると言わなければなりません。ですからそんな無理なことをしないで、ただ「真理そのもの」の気づきのなかにたゆたっていればいいじゃないか、とも思います。釈迦も最初そう思ったのではないでしょうか。でもそれはできることではなかった。伝えられるところでは釈迦は梵天の勧請をうけてはじめて気づき(悟り)を人に語りはじめたとされますが(初転法輪)、おそらくはもう黙っていることができなくなったのではないでしょうか。
 気づきで得た喜びをひとり占めしていることができなくなった。
 冬の晴れ渡った朝など、電車の窓から雪を頂いた神々しい御岳の姿が見えることがあります。ぼくはそんなときどういうわけか嬉しくて仕方なく、周りの誰彼に教えてあげたくなります、「ほら、あそこに御岳が」と。実際のところは、変な人だと思われたくありませんから黙っていますが、でもそういう強い衝動に駆られるのです。人間には喜びをひとり占めにしていられないところがあるようです。釈迦がえた喜びは御岳を見られた喜びの比ではありませんから、その喜びを自分ひとりのものにしておけず、他の人に伝えたくて仕方なくなったはずです。
 でも、どのようにして。御岳なら「ほら、あそこに」と指さすだけで済みますが、釈迦の気づきをどのように伝えればいいのか。

タグ:親鸞を読む
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