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スピノザという人 [正信偈と現代(その84)]

(3)スピノザという人

 これまでもスピノザという人に何度か言及したことがありますが、ここであらためてこのオランダの17世紀の哲学者のことを少しばかりお話したいと思います。
 実は、いま縁あってスピノザの本を読んでいるのです。若い頃に『エチカ』という彼の主著を読もうとして、あえなく途中で挫折したことがあるのですが、ぼくにはずっと不思議で仕方がありませんでした。と言いますのは、戦前の学生が学徒動員で戦地に赴くとき『エチカ』を携えていく例が多かったという話を聞いていたからです。『歎異抄』をもっていくというのはよく分かりますが、この大部で難解な『エチカ』をどうして、と疑問に思ってきたのです。
 「エチカ」とは「倫理学」という意味のラテン語ですが(英語では“ethics”)、この本の体裁はそのタイトルとは裏腹にまさに幾何学的です。
 序論もなくいきなり定義からはじまります。「自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する」。いったい何だろうと見ていきますと、定義が8つ上げられたあと、今度は公理がきます。「すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである」。以下7つの公理が掲げられ、そして定義と公理から定理が導出されていきます。「定理一 実体は本性上その変状に先立つ。証明、定義三および五から明白である」といった具合に。
 『エチカ』というタイトルから「いかに生きるべきか」という内容を期待して読みだしますと、その1ページ目から面食らってしまいます。スピノザが目指していたのは間違いなく「いかに生きるべきか」なのですが(その結論をひと言でいいますと「神の知的愛」ということになります)、そこに行きつくまでに息切れしてしまうのです。しかし「神の知的愛」を言うために、どうしてこんな幾何学的な証明体系が必要なのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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