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とことん論理的に [正信偈と現代(その85)]

(4)とことん論理的に

 スピノザにあるときひとつの気づきがやってきたに違いありません。それはどうも普通のキリスト教の教えとはかなり違うようです。キリスト教では「神が世界を創造した」と教えますが、彼の気づきはそれと相いれないものでした。さてその気づきをどう語ればいいか、どのように人に伝えればいいか、となったとき、彼がとったのは、とことん論理的に語るという手法でした。そして、そのモデルとされたのがユークリッドの『幾何学原論』であったわけです。誰も疑問をさしはさめないような定義と公理からスタートし、論理の力だけによって定理を次々と導いていく。そういうやり方で自分にやってきた気づきをことばにするという手法です。
 この手法はついていくのに骨が折れます。一つひとつの定理について、最初の定義と公理と、それまでに明らかになった定理にもとづいて証明していくのは大変な作業だったでしょうが、そのあとをきちんとたどるのも大変です。で、若い頃は途中で投げ出してしまったのですが、今度は年の功でしょうか、焦ることなく少しずつ読んでいくことができ、読み進めるにつれてスピノザの論述に感動まで覚えるようになりました。あの無味乾燥そのもののような形式のなかに感動があるのです。そして、あゝ、そうか、と年来の疑問が解けたような気になりました、戦前の学生が戦場に『エチカ』を携行したのは、この感動を生きる糧にしようとしたのだろうと。
 スピノザと龍樹と何の関係があるのかと言われるでしょうが、『エチカ』は『中論』とよく似ているのです。龍樹にもひとつの気づきがあったのに違いありません。それは大乗仏教運動のなかで編纂された『般若経典』を読むなかで彼にやってきたものでしょうが、その気づきをことばにしようとして龍樹がとったのも、とことん論理的に話を進めるという手法だったのです。

タグ:親鸞を読む
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