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『中論』という書物 [正信偈と現代(その86)]

(5)『中論』という書物

 『中論』も読者を撥ねつけるような相貌をしています。冒頭(帰敬序といわれます)に結論が掲げられます、「何ものも生ずることなく、何ものも滅することなく、何ものも常であることなく、何ものも断絶することなく、何ものも同一であることなく、何ものも異なることなく、何ものも去ることなく、何ものも来ることがない」と。不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不去、不来、これを八不(はっぷ)とよびますが、龍樹は釈迦の「縁起」の思想をこの「~でない」という八つの否定形で表し、それをあくまで「論理のことば」で証明していこうとするのです。
 まず不生について、こんなふうに言います、「あらゆるものは、それ自身から、また他のものから、また自他のふたつから、また何の因もなく、生じたものとして存在することは決してない」と。龍樹は、何かが生じるというとき、それ自身から生じるか(自己原因)、他のものから生じるか(他者原因)、自身と他のものの両方から生じるか(自他原因)、それとも何の原因もなく生じるか(無原因)の四つの場合が考えられるが、そのいずれもありえないというのです。
 龍樹はそれ以上なにも言ってくれませんが、彼の言わんとすることを推測してみますと、まず「それ自身から生ずることはない」ということですが、あるものがもう現に存在しているとしますと、それ自身からまた生じるというのは理に合わないということでしょう。次に「他のものから生じることはない」ということですが、これは常識に反するように感じます。身の回りのものはみな他のものから生じてきたように見えるからです。龍樹はおそらく「あるものが他のもののなかにあって、そこから生まれてくる」ことをイメージし、それはあり得ないと言っているのでしょう。もしすでに他のもののなかにあるなら、それはもはや他のものではなくそれ自身に違いないからです。
 もうこれ以上追うのはやめておきますが、とにかくこんな具合にとことん理詰めに押していくのが『中論』です。


タグ:親鸞を読む
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