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論理のことば [正信偈と現代(その87)]

(6)論理のことば

 ある気づきがいやしくも真理と言うに値するものでしたら、それは「こころもおよばれず、ことばもたへたり」であるに違いありません。もしそれがそのままことばになるようなものでしたら、それは気づきと呼べるようなものではなく、もうすでに知っていることでしょう。で、正真正銘の気づきが突然やってきたとき、さてこれを人に伝えるにはどうすればいいだろうと思い悩まなければなりません。そもそもことばにならないことをことばにするのですから、並大抵のことではありません。
 ここであらためて思い起こしておきたいのは、真理そのものと真理を伝えることばとはまったく別であるということです。真理そのものは気づきに他なりませんから、真理を伝えることばを聞いたからといって、そしてそれが理解できたからといって、真理そのものに気づいたことにはなりません。真理を伝えることばは真理そのもの(の気づき)へと導くための道しるべにすぎないのです。大事なことは、その道しるべを手がかりに真理そのものの気づきに至ることです。
 さて、その道しるべとしてのことばに「論理のことば」と「物語のことば」があります。スピノザの『エチカ』や龍樹の『中論』は「論理のことば」を駆使して真理そのものを語ろうとしたのですが、それは見てきましたようにきわめて困難な道です。厳格な論理を追うことの難しさもありますが、そもそも論理のことばは「分別のことば」であるという、より根本的な困難があるのです。何度も言いますように、目標は真理そのもの気づきであり、そこに至るための道しるべとして論理のことばが駆使されるのですが、ここには何ともならないすれ違いがあります。
 気づきとは世界(真理そのもの)と一体となることなのに、分別とは自分と世界をはっきり分けることだからです。

タグ:親鸞を読む
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