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否定と肯定 [正信偈と現代(その89)]

(8)否定と肯定

 『中論』の冒頭に「何ものも生ずることなく、何ものも滅することなく、何ものも常であることなく、何ものも断絶することなく、何ものも同一であることなく、何ものも異なることなく、何ものも去ることなく、何ものも来ることがない」とあったことを思い出したいのですが、このように、不生、不滅、不常、不断、不一、不異、不去、不来とすべて否定形で述べています。これは、真理の気づきを「論理のことば」で語ろうとすると、否定形にならざるを得ないことを示しているのではないでしょうか。「有無の見を摧破」するというのは、有や無に執着することを否定し、「有でもなく、無でもない」ということです。そもそも無常や無我も否定形です。
 さてこのように、気づきを論理的に語ろうとして、ああでもない、こうでもない、と否定を重ねていくことはできても、ではそれはいったい何かと肯定的に言うことができません。それは何々であると肯定的に言った途端、それはもう気づきではなくなってしまうのです。気づきにおいては主客未分なのに、それについて何かを肯定的に語った途端に主客が分離してしまうからです。「それは何々である」と言うことは、そう言っている主体と、そう言われている客体が離れているということです。
 「論理のことば」は否定をどこまでも続けていくうちに途方に暮れることになりますが、そこで助け船を出すのが「物語のことば」です。
 ぼくらには、ものごとを考えるとき、実際にそういう現実があるかどうかを気にすることなく、そうであったらどんなふうだろうと頭に思い描くことがあります。これが「物語をする」ということです。「論理のことば」はどこまでも現実に縛られます。というよりも「論理のことば」は現実がどうであるかを人に伝えるためのことばですから、現実から離れてしまっては用をなしません。ところが「物語のことば」は現実から自由になれます。たとえ現実にはあり得ないことでもお構いなしに想像を膨らませていくのです。

タグ:親鸞を読む
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