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難行と易行 [正信偈と現代(その92)]

(2)難行と易行

 難行道は「悟りの道」、易行道は「信心の道」と言い換えることができます。その対比を考えるにあたって、あらためて「真理そのもの」と「真理を伝えることば」の区別に立ち返りたいと思います。
 これまで、それを「目的地」と「そこへ導く道しるべ」の関係と言ってきました。そのさい大事なことは、まず真理そのものの気づきがあり、それを人に伝えようとしてさまざまなことばが用いられるという順序です。つまり、すでに目的地に到達した人が、これからそこをめざす人のために道しるべを用意するということです。それをこれから旅立とうとする人の側から言いますと、目的地がどこにあるのか、いや、それがどこかにあるのかどうかも分からないまま、とにかく道しるべを頼りに歩きはじめるのです。すでに目的地を知っている人(すでに気づきのある人)とこれからそこを目指そうとする人(まだ気づきのない人)の違い、言い換えれば、事後の立場と事前の立場の違いを忘れないようにしなければなりません。
 難行道と易行道の対比もそのことに関わってきます。
 龍樹にひとつの気づきがあった。それは般若の諸経典で「縁起」とか「空」ということばで言われているものでしょうが、その気づきを龍樹は「論理のことば」で人に伝えようとしました。それが『中論』です。ところがそれとはまったく違う説き方がされている経典(十住毘婆沙論には宝月童子所聞経が上げられています)があることから、「物語のことば」によるという方法もあることに思い当たったと思われます。それは阿弥陀仏の本願を信じなさいという説き方であり、その本願とは「もしひとわれを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定にいりて、阿耨多羅三藐三菩提(この上ない仏の悟り)を得」(十住毘婆沙論)というものです。なるほどこの道によっても同じ真理の気づきに至ることができるとして、これを龍樹は「信方便の易行」とよんだのです。

タグ:親鸞を読む
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