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気づきに難も易もない [正信偈と現代(その93)]

(3)気づきに難も易もない

 かくして「論理のことば」による難行道と、「物語のことば」による易行道の二つがあるということになるのですが、難行・易行というのは、すでに真理の気づきを得ている龍樹から見てのことです(事後の立場からのことです)。これから仏道を歩み始めようとするものにとっては(事前の立場からは)、「こちらが難行道で、こちらが易行道だから、易行道をとればたやすく目的地に達することができる」というわけにはいきません。「信方便の易行」だと言われて、その道をとってみたのはいいが、どこまで行っても目的地に到達できないということはいくらでもあります。
 「信楽受持甚以難、難中之難無過斯(信楽を受持することはなはだもって難し、難のなかの難、これに過ぎたるはなし)」と言われていたのはそのことです(第8回)。
 そもそも目的地に至るといいますのは、真理の気づきに至るということです。そして気づきばかりは、こちらからどれほど得ようとしても得られるものではありません。あるときふと向こうから訪れてくるものです。としますと、気づき自体には難も易もないと言わなければなりません。「論理のことば」を追っていくことの難しさと、「物語のことば」を聞くことの易しさを対比することは意味があります。『中論』を読むのはほんとうに骨が折れますが、弥陀の本願のいわれ(法蔵菩薩の物語)を聞かせてもらうのはたやすいことです。
 しかし、そのことと真理に気づくこととはまったく別であり、『中論』を読み始めてすぐ気づきに至る人もあるでしょうし、弥陀の本願をなんど聞かせてもらっても気づけないこともあるのです。真理の気づきを語ることばとは、気づきを得た人がその名状しがたい経験を人に伝える証言であり、それを聞いたり読んだりしても、それで気づきが得られる保証はどこにもありません。証言が「論理のことば」で語られようと、「物語のことば」で語られようと、そのことに変わりはありません。

タグ:親鸞を読む
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