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自家撞着 [正信偈と現代(その94)]

(4)自家撞着

 ただこのことは言わなければなりません、「論理のことば」で気づきを語ることにはどうにもならない困難がつきまとうと。前にも言いましたように(第10回、7)、「論理のことば」で「かくかくしかじかである」と語ろうとしますと、語る主体と語られる客体が分離せざるをえませんが、気づきの経験においては主体と客体が分かれていないからです。主客未分の経験を主客分離のことばで語ることは土台無理であると言わなければなりません。ですから、あえて「論理のことば」で語ろうとしますと、「かくかくしかじかではない」と否定形で言わざるを得なくなるのです。
 「論理のことば」は、主体と客体が分離した日常の経験を語るためのことばですから、主客未分の名状しがたい経験をそのことばで伝えようとしますと、われらが普通に懐いている常識を否定していくしかありません。たとえば、われらは「わたし」があると思っています。デカルトではありませんが、あらゆることが不確かでも、「わたし」があるということは確かだと思っています。でも、主客未分の経験においては、どこにも「わたし」はいません。うるわしい香りに陶然としているとき、「わたし」は香りと一体であり、まだ「わたし」は「わたし」として出現していません。ですから、「わたしはいない」と否定的に言わざるを得なくなります。
 さてしかし、「わたしはいない」と言った途端、そこに矛盾が露呈します。「わたしはいない」と言っているのは「わたし」ですから。そこで「論理のことば」は直ちに再度否定を繰り出さざるをえなくなります、「わたしはいないことはない」と。しかし「わたしはいない」は厳然たる事実ですから、それを引っ込めることはできません。かくして、「わたしはいない」と「わたしはいないことはない」の二つを同時に言わざるをえなくなるという自家撞着に陥るのです。

タグ:親鸞を読む
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