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物語なんて [正信偈と現代(その95)]

(5)物語なんて

 このように「論理のことば」で気づきを語ろうとしますと(そしてその証言を読み聞きしようとしますと)、「わたしはいない」と「わたしはいないことはない」という自家撞着のなかで悶々とすることになります。としますと、「論理のことば」による証言から気づきが得られることがあるということは、自家撞着の苦しみのなかで「論理のことば」から気づきをえることは不可能であることを思い知ったからとしか考えられません。この道では目的地に至れないと思い知ったそのとき、不思議なるかな、すでに目的地にいることに気づいているということです。
 それに対して「物語のことば」で気づきを語るときには、そのような困難はありません。その語りは、ある名状しがたい気づきがあったことからスタートして、このような気づきがあるということは、何か不思議な力がはたらいて気づかせてもらえたに違いないというように進んでいきます。この主客未分の経験は「わたし」の力ですることはできません(それは原理的に不可能です)から、向こうから経験させてもらえたとしか考えられません。そしてそれは弥陀の本願力であるというように語られていくことになります。この語りはきわめて滑らかに流れていきます。
 ではこちらには何の困難もないのか。とんでもありません、「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」と言わなければなりません。でもそれは先ほどとはまったく別種の困難で、「物語のことば」で語ること自体にまつわる困難です。「物語のことば」で語られるということだけで、「そんな証言をどうして受け入れることができようか」と撥ねつけられてしまうという問題です。これまでも考えてきたことですが(第2回)、浄土の教えの根幹にかかわることですので、何度でも立ち返りたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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