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本願を憶念する [正信偈と現代(その98)]

(8)本願を憶念する

 もういちど気づきという主客未分の経験に戻りますと(4)、そこには「わたし」がいません。気づきのなかで、「わたし」は真理と、あるいは世界とひとつになっていて、まだ「わたし」として姿を現していません。この経験は何だろうと振り返るとき、はじめて「わたし」が顔を出します。これが気づきは自分で得ることができないということです。自分で気づくということは、まずもって「わたし」がいて、「よし、気づいてやろう」と思うということですが、いま言いましたように、「わたし」は気づきの後に、のこのこ姿をあらわすしかないのです。
 「わたし」は気づきに後れをとるのです。
 「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定にいる」の「本願を憶念する」というのは、本願に(本願ということばであらわされている真理そのものに)気づいたということです。これまでそんなものが自分のなかにあるとはついぞ気づかなかったのですが、それにはたと気づいた、これが本願を憶念するということです。憶という字は「思い起す」という意味をもっています。プラトンは「イデアを想起する」と言いますが、それは、人間はもともと(生まれてくる前に)イデアを目の前に見ていたのに、それをすっかり忘れ果てていた、それをはたと思い起こすということです。同じように、ぼくらのなかにはもともと本願があるのに、それをすっかり失念してしまっていた。それをいまはたと思い起こす、これが憶念です。
 さて、忘れてしまっていた本願を思い起こす、そのときです、「すなはちのとき必定にいる」とあります。必定といいますのは不退転と同じで、必ずや阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、すなわち仏の悟りを得ることに定まっている境地という意味です。仏の悟りはまだ先のことでしょう。でも、それが得られることが定まったら、もう仏の悟りを得たにひとしい。そのような境地が必定ですが、その境地に本願に気づいたそのときに至るというのです。

タグ:親鸞を読む
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