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すなはちのとき [正信偈と現代(その99)]

(9)すなはちのとき

 本願に気づくことにより必定に入るのではありません、本願に気づくことが取りも直さず必定に入ることなのです。そこには時間の経過がありません。ぼくらは何かを知ることができますと、それをもとにして次の行動に移ります。その場合、何かを知ることが原因となって、次の行動という結果が生まれてきますから、長い短いはあってもその間に時間がありますが、本願の気づきにおいては、そのようになっていません。本願に気づくことが、そっくりそのまま必定に入ることなのです。
 ここにも気づきという主客未分の経験の特質がみられます。主客が分離していますと、まず「わたし」が何かを知る。そして、それにもとづいて「わたし」が次の行動をとる、というように因果が連続していきますが、主客未分の経験においては、いまだ「わたし」がいませんから、そこに時間の経過もありません。気づきと必定に入ることの関係は因果の関係とよぶしかありませんが、それはしかし普通の因果関係とは似て非なるものです。
 普通の因果は、原因と結果との間に時間が流れていますから、これを異時因果と名づけることができますが、こちらの因果は、原因と結果が同時ですから、これを同時因果とよべます。このことばは曽我量深氏からお借りしたものですが、ぼくは前々から仏教の因果(それを縁起といいます)は、普通に因果というのとは違うのではないかと思っていました。そのことを曽我量深氏も言われていることを知ったとき、ぼくは意を強くするとともに、曽我氏に深く感謝しました。
 本願の気づきにおいては時間がありません。前も後もない「永遠のいま」です。「永遠のいま」とは時間がフリーズしていることではありません。「だるまさんがころんだ」の遊びで、鬼が振り返ったとき、みんなはそのときの姿勢のまま静止しなければなりませんが、あれが時間がフリーズするというイメージでしょう。でも気づきという「永遠のいま」では、時間がフリーズしているのではなく、そこには時間が淀みのなかで深く渦巻いています。すべてが「ただいま」のなかで渦巻いているのです。

タグ:親鸞を読む
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