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常に如来の号を称す [正信偈と現代(その100)]

(10)常に如来の号を称す

 動物たちの生きざまを見ていますと、彼らはみな「永遠のいま」に生きているように思えてなりません。彼らにとって、生きること、そして死ぬことのすべてが「永遠のいま」のことだと思うのです。その意味で、彼らはみな悟っていると言えないでしょうか。死の瞬間の彼らの澄んだ眼はまぎれもなく悟りの境地をあらわしています。イエスは「野の百合を見よ、空の鳥を見よ」(マタイ福音書、6章)と言い、彼らは明日を思い煩うことがないと教えてくれます。
 ぼくらも実は「永遠のいま」に生きているはずですが、どういうわけか、そのことを忘れてしまい、いつも明日を思い煩うという宿命を背負うことになりました。ところが本願(という名の真理)にふと気づいたとき、ぼくらは忘れていた「永遠のいま」を取り戻すのです。ただ、いっときは後れをとった「わたし」がまた目を覚まし、姿をあらわしますから、「永遠のいま」からすぐ滑り落ち、日常の時間のなかにどっぷり浸ることになるのですが。しかし、ひとたび本願に気づき、「永遠のいま」にふれた以上、それが消えてしまうことはありません。不退転とはそういうことです。いったん気づきをえた以上は、もうそれ以前の状態に戻ることはないのです。
 そこで最後の「唯よく常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」です。本願を憶念して、そのまま必定に入ることができますと、ただただいつも南無阿弥陀仏を口にして、弥陀の本願のご恩を感謝せずにはおれません、ということです。本願を憶念すること(信心)と必定に入ること(正定聚不退)は、普通の原因・結果の関係(異時因果)ではなく、同時因果であると述べましたが、本願を憶念すること(信心)と如来の号を称すること(念仏)も普通の因果ではなく、同時因果であることを確認しておきたいと思います。信心するから念仏するのではなく、信心することがそのまま念仏することです。信心が念仏するのです。

タグ:親鸞を読む
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