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浄土門こそ仏教 [正信偈と現代(その104)]

(3)浄土門こそ仏教

 寓宗にすぎなかった浄土教を独立させたのが法然です。だからこそ法然は興福寺や延暦寺などからの猛攻撃を受けなければならなくなり、ついには承元の法難で流罪の憂き目をみることになります。
 しかし、どうして浄土教は寓宗としての扱いを受けてきたのでしょう。それは、一切衆生の救いをめざすはずの大乗仏教も、所詮は少数のエリートたちの仏教であったということです。仏教の中心はあくまで出家であり、在家は出家にもたれかかることでそのご利益にあずかるという構図、これがずっと続いてきたのです。出家と在家の関係が、本宗(聖道門)と寓宗(浄土門)の関係とパラレルになっています。出家は仏道修行に専念し悟りをめざすことができますが、在家は生業に従事しなければなりませんから、自分の力で悟りをえることは到底かないません。かくして本宗の自力聖道門と寓宗の他力浄土門という構図になるのですが、法然はこの構図をラディカルに批判したのです、それは大乗仏教の精神に根本的に反するのではないか、と。
 「もしそれ造像起塔をもって本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たむ。しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行、これに准じてまさに知るべし」(『選択本願念仏集』)。
 仏教は貧窮困乏の類、愚鈍下智の者、少聞少見の輩、破戒無戒の人を置き去りにしていいのか、と問いかけたのです。もしそれらの人たちが仏教の正客であるとすれば、他力浄土門こそ仏教ではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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