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指月のたとえ [正信偈と現代(その105)]

(4)指月のたとえ

 天親に戻りますと、彼もまた龍樹と同じように、一方では「論理のことば」で真理そのものを語るとともに(唯識説)、他方では「物語のことば」によって同じ真理を伝えようとしたのではないでしょうか(浄土論)。そして、どちらが上で、どちらが下、というような評価をすることなく、ただひとつの真理そのものを語るためのふたつの道と了解していたのではないかと思うのです。
 龍樹に「指月(しげつ)のたとえ」があります。「ひと指をもて月をおしふ、もてわれを示教す。指を看視して、しかも月をみざるがごとし。ひとかたりていはん、われ指をもて月をおしふ。なんぢをしてこれをしらしむ。なんぢなんぞ指をみてしかも月をみざると」(『大智度論』)。真理を語るための「論理のことば」も「物語のことば」も月を示す指にすぎないのに、人はその指にとらわれてしまうということです。
 天親も、大事なのは真理に気づくことであり、「論理のことば」や「物語のことば」にとられてはならないと考えていたと思います。そして、もう一歩ふみこんで言いますと、「論理のことば」もつきつめれば「物語のことば」に行きつくと考えていたのではないでしょうか。そうでなければ天親の口から「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」などということばは出てこないと思うのです。
 しかし、どうして「論理のことば」もつまるところ「物語のことば」にいきつくのか。
 釈迦の気づいた真理を語る「論理のことば」として「無我」があります。「実体としてのわれ(これをアートマンといいます)は存在しない」ということです。ぼくらはいつも「自分が、自分が」と思って生きています。つねに変わらない「自分」がいて、そこが中心となってあらゆることが回っている、と。しかし、そんな「自分」というものは仮構されたものにすぎないというのが釈迦の「無我」です。龍樹も天親もこの「無我」の思想をより分かりやすく人に伝えようと努力したと言えます。それが龍樹の「無所得空」であり、天親の「唯識説」です。

タグ:親鸞を読む
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