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われ思う、ゆえにわれあり [正信偈と現代(その107)]

(6)われ思う、ゆえにわれあり

 デカルトは少しでも疑わしいものはすべて容赦なく捨てていき、ひとつでもいいから疑うべからざるものが残らないかどうかを調べようとしました。そして最終的に「われ思う、ゆえにわれあり」という疑うべからざる真理に到達したと考えました。デカルトはこう言います、「われあり」が疑えない真理かどうかを調べるために、それも疑ってみよう。するとどうだ、そんなふうに疑っている「われ」がちゃんといるじゃないか、と。なるほどこれには反論の余地がないように見えます。
 でも何だか変だと感じないでしょうか。
 デカルトは「自分はいないかもしれない」と疑ってみようと言いますが、この疑いがあやしい。こんな疑いはありえないと言わなければなりません。これはぼくらが「みずから」おこす疑いではないのです。デカルトはありえない疑いを無理やり仮構していると言わざるをえません(そして仮構したことから自分の引き出したい結論を導こうとしています)。「自分はいないかもしれない」という疑いがありえないのは、「われあり」があらゆることの前提となっているからです。あらゆることの前提になっていることがらに疑いをおこすことはありません。疑いをおこすこと自体がこの前提の上に成り立つのですから。
 そして「われあり」に疑いをおこすことはありえないということは、「われあり」という前提も意識していないということです。
 われらは通常、「われあり」があらゆることの前提になっていることなど意識することなく「われあり」を前提として生きています。これが「われにとらわれている」ということに他なりません。デカルトが「われあり」と言うのは、実は「われにとらわれている」ということです。そして「われあり」を前提として生きていることにみずから気づくことはありません。「われあり」を無意識のうちに前提していることは、こちらからではなく、向こうから気づかせてもらうしかないのです。

タグ:親鸞を読む
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