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横超の大誓願 [正信偈と現代(その109)]

(8)横超の大誓願

 「論理のことば」(龍樹の「無所得空」や天親の「唯識説」)が、最終的には「物語のことば」(弥陀の本願名号)に行きつかざるを得ないのはどうしてかを見てきました。それはひと言でいいますと、真理そのものの気づきは向こうからくるしかなく、そして向こうからということを言おうとすると物語が必要になるということです。「修多羅に依りて、真実を顕わして、横超の大誓願を光闡す」とはそのことです。これまで自分は唯識という「論理のことば」で真実を語ろうとしてきたが、いまや横超の大誓願という「物語のことば」で真実を顕そうと思うということです。
 「横超の大誓願」の横超とは他力ということ、つまり「向こうから」ということです。弥陀の大誓願が向こうからやってくる。真理そのものの気づきを言いあらわすのに、これ以上のやり方があるでしょうか。弥陀の大誓願とは「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」、つまり「生きとし生けるものすべてが救われるまでは、わたしも救われない」ということです。むかし法蔵菩薩がそのような誓願をたて、兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行をしてついにそれを成就し阿弥陀仏となった。かくして、生きとし生けるものはみなそのままで救われている。
 ゾウさんはゾウさんとして救われており、アリさんはアリさんとして救われている。これが真理そのものの気づきです。
 如来ということば自体、同じことを語っています。如来と漢訳された元のサンスクリットは「タターガタ」で、「タター」と「アーガタ」が合成されたものです。「タター」とは真如あるいは一如と訳されますが、要するに真理そのものです。そして「アーガタ」とは到来していることを意味しますから、「タターガタ」とは、真理そのものがもうここに到来しているということです。如来はどこかかなたにおわすのではなく、真理そのものとしてもうここに来ておわすのです。

タグ:親鸞を読む
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