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一心を彰す [正信偈と現代(その110)]

(9)一心を彰す

 さて最後の文、「広く本願力の回向に由りて、群生を度せんがために、一心を彰す」の「一心」とは、天親が『浄土論』冒頭の帰敬偈で「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と述べている、その「一心」を指しています。そうしますと、「一心」とは天親が「ふたごころなく」如来に帰命するということなのですが、ただ、この正信偈の文を何度も読むうちに、主語が誰であるのかよく分からなくなってきます。前後の文脈からしますと、どう考えても天親以外にはありえないのですが、途中に「群生を度せんがために」という文言が置かれていることから、天親に法蔵の姿が重なってくるのです。
 親鸞自身がそのように感じているのではないでしょうか。親鸞は『浄土論』の天親のことばを法蔵のことばとして読んでいるような気がします。
 そのように感じさせる根拠は『教行信証』信巻のハイライト「三心一心問答」にあります。親鸞はこう問います、「如来の本願すでに至心信楽欲生のちかひをおこしたまへり、なにをもてのゆへにか論主(天親)一心といふや」と。突然この問いがおこされることに戸惑い、しかもこの問いがいったい何を問題としているのだろうといぶかしく思います。第18願の至心・信楽・欲生と『浄土論』冒頭の一心がどういう関係があるのだろうと思いながら読み進みますと、とりあえずの結論としてこう言われます、「愚鈍の衆生、解了(げりょう)やすからしめんがために、弥陀如来、三心をおこしたまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもてす。このゆへに論主、三を合して一とせる歟(か)」と。
 弥陀如来(法蔵菩薩)は至心・信楽・欲生と三心に分けて説いているが、それは結局のところ信心の一つに収まるのだから、天親はただ一心と言っているのだろうということです。親鸞は天親の一心を信心と受けとめているのは明らかです。しかしただ本願の三心と天親の一心は同じであるということを言おうとしているのでないことは、その後に展開される「三心釈」から明らかになってきます。

タグ:親鸞を読む
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