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五念門と五功徳門 [正信偈と現代(その113)]

(2)五念門と五功徳門

 『浄土論』を普通に読みますと、「われら」が五つの行(五念門)を修めることにより、その結果として五つの功徳(五功徳門)を得ることができると了解できます。そして五つの行を修めるのはもちろん今生ですが、五つの功徳を得ることができるのは来生においてであると思われます。これが自然な受けとめかたであり、みなそのように了解してきました。ところがわが親鸞は根本的に違う読み方をするのです。
 先回の終わりのところでこう言いました、「広く本願力の回向に由りて、群生を度せんがために、一心を彰す」という文を読んでいるうちに、その主語が誰であるか判然としなくなってくると。前後からして天親が主語であるのはもちろんですが、何度も読んでいるうちに法蔵がそう言っているような気がしてくるのです。それは親鸞自身が天親のことばから法蔵のことばを聞いているからでしょう。帰敬偈で「われ一心に」と呼びかけているのは紛れもなく天親ですが、実はそのとき法蔵が「われ一心に」と呼びかけていると親鸞は聞いているのです。
 「一心」とは「ふたごころなく」という意味ですが、同時に「ひとつのこころ」という意味にもとれます。いまの場合、天親と法蔵が「ひとつのこころ」になっているということです。天親が法蔵を思うとき、法蔵も天親を思っている。「仏々相念」ということばがありますが、天親と法蔵が相念じているのです。さて「一心」について言いましたことは、礼拝・讃嘆・作願・観察・回向のすべてについて言えるのではないでしょうか。つまり、天親が法蔵を礼拝するとき、同時に、法蔵が天親を礼拝している。天親が法蔵を讃嘆するとき、同時に、法蔵が天親を讃嘆している、等々。
 先ほど五念門は「われら」が修める行であると言いましたが、このように見てきますと、それは実は法蔵の行であるということになります。

タグ:親鸞を読む
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