SSブログ
正信偈と現代(その114) ブログトップ

せしめられる [正信偈と現代(その114)]

(3)せしめられる

 われらが礼拝・讃嘆・作願・観察・回向するのですが、その実、法蔵が礼拝・讃嘆・作願・観察・回向しているということ。
 あらためて第18願をみますと、「十方の衆生、心を至し信楽して、わがくににむまれんとおもふて」とありますが、この文面はわれら自身が「心を至し信楽して、わがくににむまれんとおもふ」としか受け取れません。ところが親鸞は「信巻」の三心釈において、われらは逆立ちしても「心を至し信楽して、わがくににむまれんとおもふ」ことなどできないと言うのです。われらがみずから「心を至し信楽して、わがくににむまれんとおもふ」ような気になるとしても、それは実は法蔵によってそのように「せしめられている」ということです。おなじことが天親の五念門にも言えるのではないでしょうか。われらがみずから礼拝・讃嘆・作願・観察・回向しているような気になるとしても、実は法蔵の力でそのように「せしめられている」。
 他力とはこの「せしめられる」ということ以外ではありません。
 われらが何かを願うとき、それは実はそう「願わしめられている」。舌を噛みそうな言い回しですが、願うようにはからわれているということです。自分でそう願っているようで、実はそう願うように取り計らわれているということ。さて、しかし、こんなふうに言われますと、こころのどこかが疼きませんか。そして反発が起こらないでしょうか、「それじゃあ、われらは誰かに操られている木偶の坊のようじゃないか」と。われらには、こうしよう、ああしようという意志があるはずであり、それにもとづいてこれを願い、あれを厭うというように選択しているという強固な信念があり、それが「せしめられる」という言い回しに猛然と反発するのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その114) ブログトップ