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縁起ということ [正信偈と現代(その115)]

(4)縁起ということ

 われらには自由な意志があるか、それとも何かに操られているか。これはまったく正反対のように見えます。自由な意志があるということは、どうするかを最終的には自分で決めるということであり、操られているということは、自分で決めたように思っていても、実は決められていたということですから、その意味では正反対です。しかし、実はどちらも同じ前提にたっています。われらは自由な意志があるにせよ、操られているにせよ、どちらにしても一個の独立した存在であるという前提です。
 そうでなければ、自由な意志があるという思いはもちろんのこと、操られているという感覚も生まれてきません。他から独立しているからこそ、他から自由であるとか、他に操られているという感覚が起こるのであり、もし独立していませんと、自由も不自由もありません。自分は自由か不自由かという問いが生まれてくるのは、自分を親から独立した人格として自覚してからのことで、それまでの幼年期には自由も不自由もなく、親とべったりひとつになって生きています。
 仏教が縁起ということばで言うのは、何ひとつとして他から独立して存在するものはないということです。
 前にもお話しましたが、いわゆる因果関係と仏教の縁起とはよく似ていても、実はまったく異なります。いわゆる因果関係は、ふたつのことがらを独立したものととらえて、一方を原因、他方を結果とします。一方に貧困という現象が、他方に犯罪という現象が互いに独立したものとしてあり、前者が原因、後者を結果とするのです(だから、後者をなくそうと思えば、前者をなくせばいいということになります)。しかし縁起は、ふたつのことがらを、ふたつでありながら、互いに独立しているものではなく、ひとつであるととらえます。煩悩という因と苦しみという果はひとつにつながっていますから、互いに切り離すことはできません(したがって、後者をなくそうとすれば、前者をなくせばいいというわけにはいかないのです)。

タグ:親鸞を読む
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