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自由と必然 [正信偈と現代(その116)]

(5)自由と必然

 「せしめられる」という他力の感覚は縁起の事実にもとづいています。
 われらが何かを願うというとき、実はそう願うように取り計らわれている、と言いましたが、それは何か不可思議な力に操られているということではありません。先に言いましたように、操られているという感覚は、自分が一個の独立した存在であるというところからきますが、「せしめている」力と「せしめられている」自分は別ではなく、べったりひとつですから、自由ではありませんが、かといって操られているわけでもありません。幼児は親と一体で親の願いのなかでたゆたっていますが、そのようにわれらも法蔵とひとつで、法蔵の願いのなかにとけこんでいますから、自由ではありませんが、かといって操られているのでもありません。
 この「せしめられる」というのは、別の言い方をしますと、「そうなるべくしてそうなっている」という必然性の感覚ということもできます。みずから願おうと思って、あることを願うには違いないのですが(誰かから指図されてのことではないのですが)、しかしそう願わざるをえないような必然性があるということです。普通、必然と自由は矛盾すると考えられますが、ここでは自分が願おうと思って願う自由の感覚と、それが「そうなるべくしてそうなっている」という必然の感覚は何も撞着することがありません。
 さて、われらが願うことは、実は法蔵の願いのなかにあることを見てきましたが、同じことは天親の五念門のすべてについて言うことができます。われらの礼拝・讃嘆・作願(これについていままで考えてきました)・観察・回向が、実はみな法蔵の行のなかにあって、われらはそう「せしめられている」のであり、「そうなるべくしてそうなっている」のであるということです。ここから五念門と五功徳門の関係について根本的に考え直さなければならなくなってきます。

タグ:親鸞を読む
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