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異時因果と同時因果 [正信偈と現代(その117)]

(6)異時因果を同時因果

 これまでは五念門とは当然われらが修める行であるとされてきました。そのことに露塵ほどの疑いもありませんでした。ところが親鸞的感性からしますと、これは法蔵の大行であり、われらはその必然性のなかでそう「せしめられている」だけであるとなります。もしわれらの意志により五念門の行を修めるとしますと、その結果として得られる五功徳門は未来のことになります。行と証はいわゆる因果の関係となり、五念門という原因に対して五功徳門という結果が得られるのですから、両者は互いに独立していて、その間に時間の経過があります。
 まず原因があり、しかる後に結果があるとする、いわゆる因果関係は、われらの意志とそれが生み出す結果の関係がそのおおもとにあると思われます。われらが何かをしようと思い、行動をおこすことによって何らかの結果が生まれるというところから、自然界の現象もその図式で理解するようになったのに違いありません(擬人化です)。この図式にはある前提があります。われらの意志とその結果とは相互に独立しており、一般的に原因と結果ははっきり分けることができるという前提です。そして原因と結果との間には長短の差はあれ時間の流れがあるとされます。
 しかし五念門がわれらのおこす行ではなく、必然的な縁起のなかの出来事(すなわち法蔵の大行)であるとしますと、話はまったく違ってきます。前に言いましたように、縁起における因と果は相互に独立したものではなく、したがってその間に時間の経過はありません。としますと、五念門が現在であるように、五功徳門も現在であることになります。「功徳大宝海に帰入す」ること(近門)も、「大会衆の数に入る」こと(大会衆門)も、「蓮華蔵世界に至る」こと(宅門)も、そして「真如法性の身を証せしむ」こと(屋門)も、「煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の薗に入りて応化を示す」こと(園林遊戯地門)もみな現在であるということです。

タグ:親鸞を読む
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