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今生と来生 [正信偈と現代(その118)]

(7)今生と来生

 「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふ」(『歎異抄』第15章)とありますように、信と行は今生、証は来生というのが、浄土教のイロハでしょう。としますと、五功徳門のすべてが現在のこと、今生においてであるというのは、それと真っ向から抵触してしまいます。近門と大会衆門は今生で、宅門以下は来生とする見方もあり、それが浄土真宗においては一般的なのかもしれませんが、これもしかし五功徳門のなかに無理な区別をもちこむものであり、論理的一貫性に欠けると言わざるをえません。
 さてさて容易ならざる事態となりました。五念門が「いま」なら、五功徳門も「いま」ということをどのように了解すればいいのでしょう。
 この間、『誤解された親鸞の往生論』という本を、その刺激的なタイトルに誘われて読みました。曽我量深たちの説く「現世往生論」は、親鸞の「臨終往生」の考えを誤解したものであると批判するもので、その内容もかなり刺激的です。曽我量深に深く傾倒するぼくとしては、彼が親鸞を誤解しているという話は聞き捨てならないものがあります。そこで一読しまして感じましたのは、この著者(小谷信千代氏という大谷大学で教鞭をとられていた方)は学者として優れているかもしれませんが、信の深さにおいては曽我量深に到底及ばないということです。しかし、こんな言い方はおそらく著者にとってきわめて耳障りでしょう。「信心なくして聖教は読めない」とする考えに実証的な近代仏教学の方法を対置しようとするのが著者の基本的なスタンスだからです。
 曽我量深の「現世往生論」とは「南無阿弥陀仏を信ずる時に未来の浄土は既に現在している。浄土は既に始まっている」というものですが、小谷氏によりますと、これは親鸞の往生論を誤解しているというのです。親鸞によれば(そして浄土教の基本は)浄土に往生するのはあくまでも今生のいのちが終わってからだと小谷氏は言われます。これは上の「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」とも一致して、浄土教のオーソドクスな考えだと言えるでしょう。しかし曽我量深がそんなことを知らないはずがありませんから、誤解というのはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
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