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正定聚と往生 [正信偈と現代(その119)]

(8)正定聚と往生

 曽我量深は「現世往生論」であると言われますが、彼はもちろん現世に成仏すると言っているわけではありません。現世において心身ともに煩悩からすっかり浄められるなどということがないのは当たり前であり、むしろ煩悩の気づき(機の深信)を力説するのが曽我量深です。本願に遇うことができると、身は穢土にあって煩悩にまみれたままですが、しかしこころは「すでにつねに浄土に居す」(末燈鈔、第3通)と言っているのです。そのどこが誤解なのでしょう。
 問題の焦点は正定聚にあります。
 伝統的には来生に正定聚となるとされていたのを、親鸞は信心がさだまるとき直ちに正定聚となるとしました(現生正定聚)。この点については小谷氏も曽我量深も同じ理解です。そして正定聚とは「仏になることが定まった位」であるとする点においても違いはないはずです。ただ曽我量深の論点は、正定聚となることはすでにして往生がはじまることだと説くところにあります。ところが小谷氏はそれを一益説だと非難するのです。正定聚は現益(現生の利益)、往生は当益(来生の利益)であり、その二益をはっきり分けなければならないというのです。
 現生において往生がはじまるとするのは一益説であるというのは、浄土教の要は来生の往生にあるのに、それを今生に先取りしてしまっているという非難だろうと思われます。小谷氏にとって、往生は来生であり、今生ではそれが約束される(往生の切符をもらえる)にすぎないのです。往生が約束されることで安心が与えられるのはもちろんですが、その安心も来生の往生があるからこそとされます。ひかりはあくまで来生からくるのであり、そのひかりで今生の安心が得られると。
 しかし、そもそも、どうして来生のことをこうも断定的に語れるのでしょう。経典や論釈にそう説いてあるからでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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