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無記の姿勢 [正信偈と現代(その120)]

(9)無記の姿勢

 小谷氏も言われるように、曽我量深の「現世往生論」の淵源は清沢満之の精神主義にあります。
 満之の新しさは「わが信念」(これは彼が亡くなる直前に書いた論文のタイトルでもあります)からものを語るという姿勢にあります。誰がこう言ったとか、どこにこう書いてあるとか語るのではなく、自分の信念(普通なら信心というところでしょうが、そこに染みついている宗派的くさみを嫌って、このことばをつかっていると思われます)にもとづいてものを言う。満之的には、阿弥陀仏がおわすから阿弥陀仏を信じるのではなく、阿弥陀仏を信じるから阿弥陀仏がおわすのです。この新しいスタイルに明治の青年僧たちは強く惹きつけられた。
 この満之の近代的なスタンスからは、死後について何のためらいもなく語ることはできなくなるに違いありません。彼は「わが信念」でこんなふうに述べています、「故に(如来を信じるという私の)信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳(のぶ)ることは出来ぬ」と。ここに満之的スタンスがもっともよく現れていると思います。
 満之は釈迦の「無記」の姿勢(死後については、あるともないとも言わない)を継承しているのです。
 ではこのスタンスから救いについて何を言うことができるでしょうか。本願に遇うことができたそのとき、悟りを得て仏になるとは言えません。信心をえたからといって煩悩が消えるわけではないからです。では満之が「信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である」というのはどういうことでしょうか。煩悩にまみれて生きることがそのままで許されていること、「そのまま生きていていい」と肯定されていることに気づくことです。この気づきが救いであり、その他に救いがあるわけではありません。

タグ:親鸞を読む
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