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未来はすでに現在している [正信偈と現代(その121)]

(10)未来はすでに現在している

 救いとは「来生に往生する」ことではありません。「来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳ることは出来」ないというのが満之の姿勢です。成仏は未来ですが、それは、本願に遇うことができ往生がはじまったとはいえ、いまだ涅槃の境地に至っているの〈ではない〉ということの表明にすぎません。それは未来に期す〈しかない〉ということです。大事なことは、もうすでに救いをえているということであり、救いそのものを未来に期すのではありません。ですから、未来の成仏がただの夢に終わるとしても、それで現在の救いはビクともしません。「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とはそういう意味です。
 だいぶ横道にそれてしまいましたが、天親の五功徳門に戻りましょう。五念門(信心に代表させます)と五功徳門(おなじく往生に代表させます)の二つは異時ではなく同時だから、前者が「いま」なら、後者も「いま」であるはずということでした。しかし往生が「いま」とはどういうことか、それは浄土教の基本に抵触するのではないか、と考えを巡らしてきたのです。浄土教において成仏はあくまで「これから」です。しかし、この「これから」はただの「これから」ではなく、同時に「いま」であるような「これから」であるということ、ここにもっとも重要なポイントがあります。紹介しました本の著者のように、浄土経典においても親鸞の書きものにおいても往生は来生である、以上おわり、としてしまったのでは、このいちばん大事なポイントを外してしまうことになります。
 旅の終着点である成仏はあくまで「これから」ですが、往生という旅そのものは「いますでに」はじまっているのです。正定聚とは成仏に向かう船の切符をもっていることではありません、もうその船に乗っていることです。曽我量深が「南無阿弥陀仏を信ずる時に未来の浄土は既に現在している。浄土は既に始まっている」と言うのは、そういう意味です。

                (第13回 完)

タグ:親鸞を読む
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