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長生ということ [正信偈と現代(その123)]

(2)長生ということ

 長生きを願わない人はいないでしょう。病気に苦しみながら長生きしても仕方がないが、健やかに長生きできればそんないいことはないとみんな思っています。わたしは長生きしようなどと思わない、いつ死んでもかまわない、という人も、「では、今晩あたりいかがでしょう」となりますと、「いや、今晩はちょっと」と言うのではないでしょうか。あしたになればなったで、また「今晩はちょっと」となり、結局はいつまでも生きていたいのです。親鸞は正直な人で、こんなふうに言っていました、「いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第9章)、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふ」(同)と。
 前にも17世紀オランダの哲学者・スピノザを引き合いに出したことがありますが、彼のことばをあらためて味わいたいと思います。
 「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」(『エチカ』第3部)。「この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、―自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行わせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない」(同)。生きものが「生きんかな」とするのは生きものの現実的本質であり、それをそれとして意識することなく(衝動とはそういうことです)、そのために努めていると言うのです。
 としますと、長生きしたいと願うのは人間の本質であるわけで、曇鸞が不老長生の術を求めて千里の道を遠しとしなかったのも「むべなるかな」と言わねばなりません。しかしその一方で、「無生の生」を説く曇鸞が不老長生を求めることには引っかかりを感じてしまいます。このあたりをどう考えればいいのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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