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「ほとけのいのち」を生きる [正信偈と現代(その126)]

(5)「ほとけのいのち」を生きる

 不老長生を求めて道教の経典を持ち帰った曇鸞に対して、菩提流支が『観無量寿経』にこそほんとうの不老長生の教えがあると言ったという話に戻ります。
 長生きを願うのは人間として自然であり、それを非難するいわれはありません。スピノザが言うように「自己の維持に役立つすべてのこと」をしようとするのは生きものの「現実的本質」です。誰でも意識するしないにかかわらず、少しでも生きながらえようと涙ぐましい努力をしています。それでもしかし病気になるときは病気になりますし、またどんな災難がふりかかっていのちを縮めることになるやもしれません。そんなときこそ問題です。曇鸞も『大集経(だいじっきょう)』60巻の注釈をやり遂げようと志した矢先に病を得て、これでは死んでも死にきれんと不老長生の秘術を求めたとされます。
 われら生きものは誰に言われなくても「生きながらえよう」と涙ぐましい努力をしているのです。これは生きものとしての衝動であるとスピノザは教えてくれます。ところが、この努力が壁にぶつかりますと、このままでは死んでも死にきれないと思い、どんなことをしても長生を手に入れようとする。そのとき現世利益を約束する声がささやくのです、「かくかくしかじかのことをすれば長生きできますよ」と。こうして「いのち」を巡る取引がはじまります。
 さてでは浄土の教えは長生についてどう教えてくれるのでしょう。そしてどうしてそれが長生のほんとうの教えと言えるのでしょうか。
 浄土の教えは、本願に遇うことで「わたしのいのち」を生きていながら「ほとけのいのち」を生きていると気づくのだと教えてくれます。「帰っておいで」という弥陀の声が聞こえるということは、「ほとけのいのち」を生きていると気づくことに他なりません。そして「ほとけのいのち」と生きるとなりますと、もうこれ以上の長生きはないではありませんか。曇鸞が「無生の生」ということばで言おうとしたのはこのことです。「わたしのいのち」を生きているという点では生死のなかにあるのですが、しかし「わたしのいのち」は「わたしのいのち」でありながら同時に「ほとけのいのち」ですから「無生」と言わなければなりません。生死でありながら無生である、これが「無生の生」です。
 往生とは「ほとけのいのち」を今生で生きるということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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