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セクト主義 [正信偈と現代(その127)]

(6)セクト主義

 さてこの「無生の生」という言い回しからは、先にも言いましたように、龍樹の中観派的な匂いがプンプンします。あるいは聖道門的な色合いと言ってもいいでしょう。親鸞がどれほど曇鸞を尊敬していたかは至るところにうかがえますが(そもそも親鸞の鸞は曇鸞の鸞をもらったのですし、主著『教行信証』には曇鸞からの引用が善導と並んできわめて多い。さらには『高僧和讃』のなかで曇鸞讃が頭抜けて多いこと等々)、親鸞が中観派に色濃く染まった曇鸞をここまで高く評価するということから見えてくるのは、親鸞が、やれ聖道門だ、やれ浄土門だ、といったつまらないセクト主義からいかに遠いところにいたかということです。
 宗教には排他性がつきまといます。それはたとえばキリスト教とイスラム教との間だけでなく、それぞれの宗教内部にも及びます。キリスト教ならカトリックとプロテスタント、イスラム教ならスンナ派とシーア派といった具合です。仏教も然りで、やれ小乗だ、大乗だ、やれ聖道だ、浄土だ、と覇をきそう。互いの違いを言い立てるだけなら問題はないのですが、われが優れており、他は劣っている、もっと言えば、われは真であり、他は偽であると排他的になりがちです。こうして人々の心に平安をもたらすはずの宗教が激しい争いの種をまくという転倒が起こってきます(それは平和で幸せな社会を創ろうとする政治運動についても同じことが言えます)。
 浄土真宗も非常に排他的な宗派とみなされているようですが(それは真宗が世の習俗をきっぱり拒絶することが多いことからくるのでしょう)、親鸞について言えば、宗派的排他性からいちばん遠くにいた人と言えると思います。親鸞は己れの信心にきわめて厳格な姿勢をとる人(他との違いに敏感な人)ですが、そのことと他を排除しないということはまったく矛盾しません。むしろ己れに厳格であるからこそ、他を排除せず、ひとつに包み込む姿勢が生まれてくるのです。

タグ:親鸞を読む
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