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真実と方便 [正信偈と現代(その128)]

(7)真実と方便

 聖道門は「今生の悟り」を、浄土門は「来生の往生」をめざす、としてしまいますと(そうするのが一般的でしょうが)、両者はまったく異質の仏教になってしまいます。互いにまったく別の道を行くことになり、いきおい他を否定しあう不幸な関係となりますが、しかし聖道門にせよ浄土門にせよ、いきつく真理は釈迦の説いた仏法しかないはずです。
 では、違いを理解しながら、他を否定しない要諦は何か。親鸞にとってはそれが「真実と方便(真と化)」の区別です。
 真実はひとつ、釈迦の悟り(気づき)です。でもそれをどう語るかは人によりさまざまで、それが方便です。龍樹の「指月のたとえ」では、指される月が真実で、それはひとつしかありません。でもさす指は人それぞれで、これが方便です。人はともするとさす指を見て、それをさされた月と思い込み、それぞれの指の違いについて、やれ真だ、偽だと争いを繰り広げるのですが、真実は月そのもの(の気づき)であり、それぞれの指の違いは方便の違いにすぎません。
 そして真実の気づきは、それがすでにあるか、いまだないか、しかありません。ある人にはあり、ない人にはない、以上おわり、です。
 気づきのある人がない人を非難するいわれはありません。自分の力で気づきを得たのでしたら、それがまだない人に「あなたはどうしてないのですか」と言うことができるでしょうが、この気づきは自分で得られるものではありませんから、まだない人に「どうして」とは言えません。また気づきのない人からしますと、誰かから「こんな気づきがありました」と言われても、それにどう反応していいのか戸惑うばかりでしょう。そんなことがあるのかと不思議に思うだけでなく、それは幻覚ではないのかといぶかしく思う人も多いのではないでしょうか。
 このように気づきそのものについては、それがある人とない人との間にどうしようもない溝がありますが、気づきのある人がない人のことをどうこう言ういわれがないことはすでに述べた通りです。

タグ:親鸞を読む
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