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如来の本願力 [正信偈と現代(その132)]

(3)如来の本願力

 『論註』で曇鸞は他力についてどう言っているか見ておきましょう。
 曇鸞は「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行(往生したものがおこす利他の行)とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆへなり。なにをもつてこれをいふとなれば、もし仏力にあらずは、四十八願すはなちこれ徒設(とせつ、いたづらごと)ならん」と述べ、それを第18願、第11願、第22願の三願について確認していきます(三願的証とよばれます)。そして18願については「仏願力によるがゆへに十念念仏してすなはち往生をう」と言い、11願については「仏願力によるがゆへに正定聚に住せん、正定聚に住するがゆへにかならず滅度にいたる」と言い、そして22願について「仏の願力によるがゆへに、常倫に超出し(通常のあり方を超えて)、…普賢の徳(利他大悲の徳)を修習せん」と言います。
 このように自力で悟りをひらこうと修行する菩薩も、結局のところ他力によらなければ往生することも滅度にいたることもできないと言うのです。他力とは言うまでもなく阿弥陀如来の本願力のことで、ここに阿弥陀仏の本願を信じるという「物語的な語り」が登場します。無我や空という釈迦の悟りを得ようとどれほど努力しようとも、それは自力ではなしえず、阿弥陀仏の本願力という他力によらなければならないということ、浄土教の「物語的な語り」はこのことを明らかにしようとしているのです。
 「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」とはそのことを言っているのです。
 本願の信心という「物語的な語り」によらなければ、「生死すなはち涅槃なり」という真実を言いあらわすことはできないということです。先回の最後のところで、真実の気づきを伝えようとするとき、「論理のことば」で語ろうとすると、矛盾というどうしようもない困難に逢着せざるをえないと言いましたが、この「生死即涅槃」という言い回しはまさに矛盾そのものです。生死とは、たんに生き、そして死ぬということではなく、生き、また死ぬことに迷うということです。生き、死ぬことに苦しむということです。それがそのまま涅槃、すなわち迷いや苦しみが消えた境地であるというのですから、もう矛盾そのものと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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