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無我ということ [正信偈と現代(その133)]

(4)無我ということ

 釈迦の悟りの原点である「無我」に立ち返って考えてみましょう。われらは時間とともに変化することのない「われ」があると思って生きているが、実はそんなものはどこにもないのだ、というのが「無我」ということです。昨年の「われ」と今年の「われ」とは同一であると思い込むことから、あらゆる苦しみが生まれてきます。昨年はあんなに元気だったのに、今年は大病をえて床に臥せっているというところから、「わがいのち」についての苦しみが生じます。昨年は事業があんなにうまく回っていたのに、今年は思いがけず倒産してしまったというところから、「わがもの」についての悩みが生じます。
 しかし、時間とともに変化することのない「われ」などというものはどこにもなく、したがって「わがもの」などというものもないとしますと、世界がどんなに変化しようとも、そのことで苦しみ悩むことはないでしょう。これが釈迦の無我の教えです。さてしかし、ここに困ったことが起ります。時間とともに変化することのない「われ」は存在しない、と知るのは誰でしょう。それは釈迦という「われ」であり、釈迦の悟りを追体験しようとするそれぞれの「われ」に他なりません。あることを知るということがあるとしますと、そこに「われ」がいなくてはならず、その「われ」は時間とともに変化することのない「われ」でなければなりません。
 さてさて、時間とともに変化することのない「われ」は存在しない、ということを知るのは他ならぬ時間とともに変化することのない「われ」であるということになってしまいました。これではもうどうしていいか分からなくなります。「われ」は「われ」であって、すなわち「われ」ではない。鈴木大拙なら即非の論理というところですが、普通の言い方では矛盾ということです。「生死即涅槃」も同じことです。生死とは「わがいのち」に迷い苦しむということで、涅槃とは「もはやわがいのちはない」という境地ですから、「生死即涅槃」とは、「わがいのち」は「わがいのち」でありながら、同時に「わがいのち」ではないという矛盾です。

タグ:親鸞を読む
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