SSブログ
正信偈と現代(その134) ブログトップ

阿弥陀如来の登場 [正信偈と現代(その134)]

(5)阿弥陀如来の登場

 「わがいのち」は「わがいのち」でありながら、同時に「わがいのち」ではない、というのは紛れもない矛盾ですが、そこに否みようのない真実を感じるのも事実です。その微妙な消息を、仏法には世俗の論理を超えた特別な論理(即非の論理)があるのであり、それを体得しなければならないと正面突破していくのが聖道門の「論理的な語り」でしょうが、世俗の論理にどっぷり浸っているわれらとしては、そこに何かをたしかに感じつつも、「どうにも納得しかねます、ついていけません」と言わざるをえません。そうしたときに登場するのが浄土門の「物語的な語り」です。
 阿弥陀如来が登場してくるのです。
 「論理的な語り」では「われ」しかいませんが、「物語的な語り」では「われ」に向かってよびかける阿弥陀如来が登場してきます。「論理的な語り」では「われ」が「わがいのち」をどうとらえたらいいのか、どう取り扱えばいいのかを巡って七転八倒することになります。「わがいのち」があるのは天地がひっくり返っても確かだが、しかし縁起の法に照らして考えてみれば「わがいのち」などというものはどこにも存在しないことになる。さてさてどう考えればいいのかと、「われ」が「われ」のなかでグルグル回ることになりますが、「物語的な語り」では、そこに阿弥陀如来があらわれ、「われ」に向かって「なんじよ」とよびかけるのです。
 「なんじは『わがいのち』を生きていると思っているが、それは『如来のいのち』であり、それ以外にいのちはないのだ」と。このよびかけに「あゝ、これまで『わがいのち』を生きていると思い苦しんできたが、そうではなく『如来のいのち』を生きているんだ」と気づかせてもらう、これが弥陀の本願を信じるということであると、「物語的な語り」は教えてくれるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その134) ブログトップ