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生死すなはち涅槃なり [正信偈と現代(その136)]

(7)生死すなはち涅槃なり

 しかし、真実をみずから知ろうとするというのはよく分かるが、向こうから知らしめられるというのはどういうことか、向こうというのが阿弥陀如来だということをどう受けとめればいいのか、という反応が返ってくることが当然予想されます。そもそも真実を語るのに物語のことばを借りるとは何なのか、物語と真実とは真っ向から反するものではないのか、と。
 そこでいま一度確認しなければならないのが、阿弥陀如来のよびかけという「語り」は、真実の気づきを伝えるための方便(親鸞の言う「れう・料」)であるということです。「物語的な語り」を聞くことと、真実の気づきをえることはまったく別であるということ。「なんじは『わがいのち』を生きていると思っているが、それは実は『如来のいのち』なのだ」というよびかけがあるという証言を聞くことは、そうしたよびかけを自分が聞くことではありません。
 大事なのはみずから真実の気づきをえることなのに、人はともすると阿弥陀如来からそのようなよびかけがあるという「物語的な語り」の方に気をとられ、どうして阿弥陀如来からよびかけられるなどというおとぎ話のようなことがあるのかというところにひっかかってしまうのです。肝心なのは真実という月を見ることなのに、人が月をさしている指に気をとられ、そこから先に思いが及ばない。
 そこであらためて「生死すなはち涅槃なり」に戻りますと、この「すなはち(即)」は「おなじ」ではなく「ひとし」という意味であることが了解できます。
 親鸞は「おなじ」と「ひとし」を区別して、たとえばこんなふうに言います、「しかれば弥勒とおなじくらゐなれば、正定聚のひとは如来とひとしともまふすなり。浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こころはすでに如来とひとしければ、如来とひとしとまふすこともあるべし」(『末燈鈔』第3通)と。信心のひとは弥勒とは正定聚ということで「おなじ」であるが、如来とは「ひとし」と言えるということ。


タグ:親鸞を読む
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