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ひとし [正信偈と現代(その137)]

(8)ひとし

 「おなじ」というのは「ひとつ」ということですが、「ひとし」というのは「ひとつ」とは言えないが、しかし「ふたつ」でもないということです。信心のひとは如来と「ひとつ」ではないが、しかし「ふたつ」でもない、これが信心のひとは如来と「ひとし」ということです。この「おなじ」と「ひとし」の区別を「生死すなはち涅槃なり」にあてはめますと、生死は涅槃と「おなじ」ではないが「ひとし」となります。
 生死と涅槃は「おなじ」あるいは「ひとつ」としてしまいますと、もうガチンコの矛盾です。だからといって、生死と涅槃は「まったく別」あるいは「ふたつ」としますと、肝心の真実から遠く離れてしまいます。そこで生死と涅槃は「おなじ」ではないが「まったく別」でもない、「ひとつ」ではないが「ふたつ」でもない、つまり「ひとし」としなければなりません。
 かくして聖道門が言うところの「生死即涅槃」の「即」はこの「ひとし」の意味であることが了解されます。このようにみてきますと聖道門と浄土門は見かけほどの違いがないことが分かります。同じ真実の気づきを違った語り口で伝えているだけ。親鸞は龍樹や天親、そして曇鸞からこのことを深く学ぶことで、聖道門と浄土門の間のセクト主義から抜け出すことができたと言えるでしょう。
 聖道門と浄土門の違いを強調するとき「自力の悟り」と「他力の救い」の対比が浮き彫りにされます。この言い方が間違いというわけではありませんが、ややもすると「他力の救い」が「神の救い」とダブって理解され、われらが神をたのめば、神がそれに応えて救いを与えてくれるように、われらが阿弥陀仏をたのめば、阿弥陀仏がかならずわれらを救ってくれるというイメージでとらえられます。これはしかし親鸞の言う「他力の救い」とは似て非なるものと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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