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正信偈と現代(その139) ブログトップ

偈文16 [正信偈と現代(その139)]

          第16回 道綽-ただ浄土の通入すべき

(1)偈文16

 道綽決聖道難証(どうしゃくけっしょうどうなんしょう) 道綽、聖道の証し難きことを決して、
 唯明浄土可通入(ゆいみょうじょうどかつうにゅう)   ただ浄土の通入すべきことを明かす。
 万善自力貶勤修(まんぜんじりきへんごんしゅ)  万善の自力、勤修を貶す。
 円満徳号勧専称(えんまんとくごうかんせんしょう)  円満の徳号、専称を勧む。

 (現代語訳) 道綽禅師は『安楽集』を著し、この濁った時代に聖道門で悟りを得ることは難しく、ただ浄土門だけがわれらの入るべき道であることを明らかにしました。自らの力によりどれほど善根を積もうともむなしいと説き、功徳が円かに満たされている名号を専ら称えることを勧めてくださったのです。

 龍樹、天親、曇鸞と見てきましたが、その次に道綽が登場します。そして道綽に学んだ善導へと続いていくのですが、曇鸞までの流れと道綽以後の流れの間にひとつの落差があるように感じられます。それは道綽によって仏教が聖道門と浄土門の二つに大別されたことと関わります。龍樹は難行と易行という対立軸を、曇鸞は自力と他力という区分をたてましたが、それらと道綽による聖道・浄土の区別とは位相が異なるように思えるのです。
 難行・易行、自力・他力は同じ仏教のなかの方法の差にすぎないような印象ですが、聖道・浄土となりますと、仏教そのものが二つに分かれてしまったように感じられます。
 法然もそれを感じていたのに違いありません、浄土宗を他の諸宗から独立させようという意図のもとに著した『選択本願念仏集』の冒頭に、道綽の『安楽集』から次の文を引いています、「それ聖道の一種は、今の時、証し難し。一には大聖(釈迦)を去れること遥遠(ようえん)なるによる。二には理は深く解(さとり)は微なるによる。…当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と。

タグ:親鸞を読む
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