SSブログ
正信偈と現代(その140) ブログトップ

当今は末法 [正信偈と現代(その140)]

(2)当今は末法

 龍樹では難行道もあるが、易行道もある、ただ行く道が違うだけで、どちらを通っても同じところに行けるということでしたが、道綽になりますと、自力難行道をとる聖道門はもはや不可能であり、ただ他力易行道をとる浄土門だけが通行可能であると説くようになります。ここには明らかな落差があると言わざるをえません。どうしてこのような違いが生まれてきたのかを考えていきたいのですが、その前にあらためて確認しておきたいことがあります。
 道綽は仏教に聖道門と浄土門の二つがあると言いましたが、それは聖道門の真実と浄土門の真実というように二つの真実があるということではありません。仏教の真実はただひとつ、釈迦の悟った真実だけです。ただ、それを語るのに聖道門的な語り口と浄土門的な語り口の二つがあるということ。道綽が言うのは、時代の流れのなかで聖道門的な語り口ではもはや誰も理解しえなくなり、ただ浄土門的な語り口だけが通用するようになったということです。
 さてしかし、どうして「それ聖道の一種は、今の時、証し難し。…ただ浄土の一門のみありて通入すべき路」であるのか。
 何と言ってもまず目を引くのが「末法意識」です。「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり」という歴史意識に焦点を合わせましょう。五濁の中身を確認しておきますと、1.劫濁(時代の悪)、2.見濁(思想の悪)、3.煩悩濁(煩悩熾盛)、4.衆生濁(衆生の悪)、5.命濁(短命となる)の五つですが、要するに時代とともに社会が劣化して、あたりに悪が満ちるようになるということです。道綽は、彼が生きた時代(南北朝時代の末期で戦乱が絶えず、また仏教に対する弾圧が激しかった時代)のありさまから五濁悪世を身に沁みて感じたに違いありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その140) ブログトップ